暗躍する列強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
1828年、ロシアは1826年に結んでいたアッケルマン条約を破棄したオスマン帝国に対して正式に宣戦布告、ここに露土戦争が勃発した。ロシア軍は苦戦の末イスタンブール北西の都市アドリアノープルを占領した。ロシア軍の独走を嫌うイギリス・オーストリアの仲裁によって1829年、露土間にアドリアノープル条約(エディルネ条約)が結ばれ、オスマン帝国はオスマン帝国を宗主国とするギリシャの自治国化を受け入れた。 しかし、このバルカン半島のオスマン帝国領の処遇を扱った条文の中で、ギリシャについては自治国としての独立が保証されたが、ギリシャにおけるロシアの影響力が増大することを懸念したイギリス・フランスは、その影響力を弱めるためにもギリシャの完全独立を主張した。そのため、1830年2月のロンドン議定書によって完全独立が認められた。 オスマン帝国大宰相府に駐在する列強三国大使らは長い交渉の後、西はアルタから東はヴォロスに至る国境を承認、その規模はペロポネソス半島、南部ルメリア、いくつかの島嶼部を含んでいるに過ぎず、人口も独立戦争開始時に居住していたギリシャ人の3分の1以下でしかなかった。そして、ギリシャには世襲制の王家を置くことを決定、列強三国と直接の係累にないヨーロッパの王族が選ばれることも決定された。 当初、サクス・コブルク家のレオポルドが候補に上がっていたが、レオポルドはカポディストリアスからギリシャの悲観的な将来像について報告を受けたため、これを辞退、結局、パヴァリア王ルートヴィヒ1世の次男、ヴィッテルスバッハ家のオットーが選出され、1832年5月7日、オットーの故郷であるバイエルン政府とイギリス、フランス、ロシアの列強三国の間で条約が結ばれたが、ギリシャはあくまでも『保護国』に過ぎず、借款が供与されたことにより、政治的、経済的にも束縛されることになった。
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