時代劇の助監督から月光仮面へとは? わかりやすく解説

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時代劇の助監督から月光仮面へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 14:38 UTC 版)

唐順棋」の記事における「時代劇の助監督から月光仮面へ」の解説

1929年昭和4年1月16日神奈川県横浜市中区元町生まれる。日本映画監督全集によれば本籍中華人民共和国上海市延安東路中国語版)にあるといい、同国1949年昭和24年10月1日建国されており、同書記述正しければ同国建国以降のものであり、唐の誕生時点では同地中華民国属していた。旧制神奈川県立横浜第三中学校現在の神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)、旧制・第一高等学校現在の東京大学教養学部文科甲類卒業し第二次世界大戦後京都大学法学部進学した同学在学時の友人当時東映京都撮影所長であり、かつてのマキノ・プロダクション總務部次長であった長橋善語(長橋達夫の子がおり、唐は長橋薫陶受けて映画界入り決意したという。 1953年昭和28年3月同学卒業するとともに高村将嗣宝プロダクション京都市右京区)に入社する同社当初新東宝配給作品製作していたが、東映配給変更になり、同年には自主製作中止東映京都撮影所ステージ賃借契約結んだ会社である。唐は当初マキノ雅弘、ついで渡辺邦男中川信夫師事した当時同社助監督部には加藤泰弟子として船床定男がいた。同社1958年昭和33年)には倒産するが、唐はすでにその前に退社しており、倒産前年1957年昭和32年4月2日、同4月23日東宝製作・配給して公開された『早く帰ってコ』、『東京だヨおッ母さん』の2作にチーフ船床セカンド永倉平につぐサード助監督としてクレジットされている。宝プロダクション倒産するころには、船床とともに宣弘社契約を結び、連続テレビ映画『月光仮面』監督抜擢され船床チーフ助監督務める。1958年11月4日放映開始した遊星王子』では、唐沢 二郎の名で監督昇進した

※この「時代劇の助監督から月光仮面へ」の解説は、「唐順棋」の解説の一部です。
「時代劇の助監督から月光仮面へ」を含む「唐順棋」の記事については、「唐順棋」の概要を参照ください。

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