時代劇の助監督から月光仮面へ
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「唐順棋」の記事における「時代劇の助監督から月光仮面へ」の解説
1929年(昭和4年)1月16日、神奈川県横浜市中区元町に生まれる。『日本映画監督全集』によれば、本籍は中華人民共和国上海市延安東路(中国語版)にあるといい、同国は1949年(昭和24年)10月1日に建国されており、同書の記述が正しければ同国建国以降のものであり、唐の誕生の時点では同地は中華民国に属していた。旧制・神奈川県立横浜第三中学校(現在の神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)、旧制・第一高等学校(現在の東京大学教養学部)文科甲類を卒業し、第二次世界大戦後、京都大学法学部に進学した。同学在学時の友人に当時の東映京都撮影所長であり、かつてのマキノ・プロダクション總務部次長であった長橋善語(長橋達夫)の子がおり、唐は長橋の薫陶を受けて映画界入りを決意したという。 1953年(昭和28年)3月、同学を卒業するとともに、高村将嗣の宝プロダクション(京都市右京区)に入社する。同社は当初は新東宝配給作品を製作していたが、東映配給に変更になり、同年には自主製作を中止、東映京都撮影所とステージ賃借契約を結んだ会社である。唐は当初はマキノ雅弘、ついで渡辺邦男、中川信夫に師事した。当時同社の助監督部には加藤泰の弟子として船床定男がいた。同社は1958年(昭和33年)には倒産するが、唐はすでにその前に退社しており、倒産前年の1957年(昭和32年)4月2日、同4月23日に東宝が製作・配給して公開された『早く帰ってコ』、『東京だヨおッ母さん』の2作にチーフの船床、セカンドの永倉君平につぐサード助監督としてクレジットされている。宝プロダクションが倒産するころには、船床らとともに宣弘社と契約を結び、連続テレビ映画『月光仮面』で監督に抜擢された船床のチーフ助監督を務める。1958年11月4日に放映開始した『遊星王子』では、唐沢 二郎の名で監督に昇進した。
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