昭和期 - 晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 02:53 UTC 版)
昭和期に入り、時代が戦時体制に向かうと、札幌駅を訪れる旅行客も減少し、駅弁販売も低迷した。また駅弁にとって最も致命的なのは、食材の入手が困難になったことだった。比護はそれでも、「お客様に札幌の駅弁を食べてもらいたい、お客様を喜ばせたい」との一心で研究を重ね、駅弁作りに励んだが、次第に体は病気に侵された。 比護は病床においても、家族や見舞いの客を相手にし、札幌の駅弁の将来や、新たな駅弁のアイディアを熱心に語った。駅弁売りの声、列車の発車のベルと蒸気、旅行客たちの声を懐かしみ、「病気が治ったら、またお客様に駅弁を食べてもらう」と常に語っていたが、その願いが叶うことはなく、1937年(昭和12年)5月20日、66歳で死去した。 その後の1943年(昭和18年)、札幌駅で有限会社「札幌駅構内立売商会」(現・株式会社札幌駅立売商会)が設立された。同社は終戦後の復興期を経て、比護の精神を受け継ぐ形で、次々に新たな弁当、札幌名物の駅弁を作り出すに至っている。かつてのような立売の駅弁販売者は姿を消し、駅弁の内容も、時代ごとの嗜好に合わせて変遷を辿ったが、比護が考案したサケやヤマベといった食材は、彼の没後にも受け継がれている。
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