日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:25 UTC 版)
「刀伊の入寇」の記事における「日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族」の解説
「刀伊の入寇」の主力は女真であったと考えられている。女真とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる。 13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真もこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13~14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている。
※この「日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族」の解説は、「刀伊の入寇」の解説の一部です。
「日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族」を含む「刀伊の入寇」の記事については、「刀伊の入寇」の概要を参照ください。
- 日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族のページへのリンク