日本の皇室・華族との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 09:03 UTC 版)
1920年(大正9年)4月、王世子李垠と梨本宮家の方子女王が婚姻し、皇室と姻戚関係となった。二人に間には、晋(夭折)と玖が誕生した。垠と方子女王及び梨本宮家との関係は良好であった。1963年に夫妻は韓国へ帰国し、方子は夫が死んだ後も韓国に残り、韓国の社会福祉活動に貢献した。 また李鍵公が海軍大佐松平胖の娘松平佳子と結婚、また李徳恵が宗武志伯爵と結婚しているが、戦後に離婚している。李鍝公の妻朴賛珠は朝鮮貴族朴泳孝侯爵の娘である。 李太王は日本人と李垠が結婚することを望んではいなかったが、李王家の存続にもつながるため皇室と縁戚関係になることは望んでいた。李垠など第二世代である王公族は皇族と同様の地位を自明のものとしており、日本の皇族達とも円満な関係を持っていた。戦後も李玖は旧皇族の伏見博明と親しく交友し、方子も皇族と交流があった。李鍵公は特に皇室とは親しく、三笠宮崇仁親王、賀陽宮恒憲王、竹田宮恒徳王とは月1回持ち回りで宴席を設けるほどの仲だった。李鍝公は兄の李鍵公によれば「その日(朝鮮独立)が来るのを、何にもまして待っていた」と表現されるほどであったが、軍務には忠実であり、高松宮宣仁親王とも親しかった。高松宮は李鍝公を「鍝ちゃん」とよんでいたという。
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