日本におけるP6
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 06:43 UTC 版)
ローバーP6は当初、当時の日本総代理店であったコーンズが輸入、販売した。輸入台数は1960年代を通じて100台にも満たなかった。 また、4気筒モデルの輸入は2200のデビューとともに中断してしまう。これは労働争議に悩んだブリティッシュ・レイランド(BLMC)には日本市場向け排気ガス対策に対応する余裕がなかったためである。その後は3500のみが、1970年にディーラーとなった新東洋モータースの手によって、1975年まで輸入された。この最後の日本向け3500は右ハンドルで、昭和48年排ガス規制に対応させる改造を施した日本仕様であったが、1960年代後半の2000TCで265万円(当時)だった価格は525万円(当時)にまで上昇していた。 日本の自動車評論家・小林彰太郎は「P6」の著名なオーナーであった。彼は2000TCを、「理想の車」として、編集長を勤めた「カーグラフィック」誌上で何度も紹介した。シックな内外装と、前期型ではまだ高水準であった工作精度を持ち、シトロエンDSの影響も受け、英国車としては異例にハイギアリングだったP6は、長距離の高速巡航の機会が増えた東名高速道路全面開通(1969年)後の日本において、英国車ファンであった彼にとっては理想の存在であった。1970年に小林は実際に2000TCの新品同様の中古車を入手、75年にアルファロメオ・アルフェッタに乗り換えるまで愛用し、P6の魅力を世に説き続けた。輸入台数の割にP6の日本での知名度が高いのは、小林の「布教」にも一因がある。
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