新英学校及女紅場
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明治5年(1872年)、京都府は産業基立金の利益をもって、京都市の土手町丸太町(鴨川の丸太町橋西詰)に「女紅場」を開設した。日本初の公立女学校とも位置付けられる学校で、のちに京都府立京都第一高等女学校を経て、現在の京都府立鴨沂高等学校につながるとされている。 この学校は、当初はイギリス人エヴァンス夫妻(Hornby Evans と Emily Evans)を招聘して、華族・士族の子女を対象に英語と女紅を教える学校であった。のちに平民の入学も許可し、女紅についてもエヴァンス夫人が英語とともに「西洋女紅」(洋裁)を教えていたのを改め、「着実にして工芸ある女子」を教員として採用して教授を分担し、「新英学校及ビ女紅場」と称したという。この学校は、産業基立金が校費に充てられていたことから京都府勧業課の管轄であった。 「女紅場」と「新英学校」(「新英学級」とも)が別個の学校として運営され、「新英学校」は男子生徒のみが通う事実上の男子校であった時期もあるようであるが、その後の学校整備に伴って男子生徒は中学校に収容され、「新英学校及女紅場」は女子教育機関となった。女子教育機関となった「新英学校及女紅場」の生徒には、英学と女紅を学ぶ「英学生徒」と、女紅のみを学ぶ「女紅生徒」の区分があった。女紅を授ける学校で、選択制で英語教育も受けることができたと言える。 この学校は、1874年(明治7年)に「英女学校及女紅場」と改称したのち、1876年(明治9年)には13歳以上で小学校卒業を入学資格とする中等教育機関「女学校及女紅場」となり、英学を主としながらも和漢学を兼修させ、教員育成の任務も担った。このとき、「女学校」は学務課に移管されたが、「女紅場」は引き続き勧業課の管轄下に置かれた。 1882年(明治15年)6月に「女紅場」の名は廃止され、この学校は単に「京都府女学校」と称されることとなった。
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