新英学校及女紅場とは? わかりやすく解説

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新英学校及女紅場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 16:33 UTC 版)

女紅場」の記事における「新英学校及女紅場」の解説

明治5年1872年)、京都府産業基立金利益をもって京都市土手町丸太町鴨川丸太町橋西詰)に「女紅場」を開設した日本初公立女学校とも位置付けられる学校で、のちに京都府立京都第一高等女学校経て現在の京都府立鴨沂高等学校につながるとされている。 この学校は、当初イギリス人エヴァンス夫妻Hornby EvansEmily Evans)を招聘して、華族士族の子女を対象に英語と女紅教え学校であった。のちに平民入学許可し女紅についてもエヴァンス夫人が英語とともに西洋女紅」(洋裁)を教えていたのを改め、「着実にして工芸ある女子」を教員として採用して教授分担し、「新英学校及ビ女紅場」と称したという。この学校は、産業基立金校費充てられていたことから京都府勧業課の管轄であった。 「女紅場」と「新英学校」(「新英学級」とも)が別個の学校として運営され、「新英学校」は男子生徒のみが通う事実上男子校であった時期あるようであるが、その後学校整備伴って男子生徒中学校収容され、「新英学校及女紅場」は女子教育機関となった女子教育機関となった「新英学校及女紅場」の生徒には、英学女紅を学ぶ「英学生徒」と、女紅のみを学ぶ「女紅生徒」の区分があった。女紅授け学校で、選択制で英語教育も受けることができたと言える。 この学校は、1874年明治7年)に「英女学校女紅場」と改称したのち、1876年明治9年)には13歳上で小学校卒業入学資格とする中等教育機関女学校女紅場」となり、英学を主としながら和漢学を兼修させ、教員育成任務担った。このとき、「女学校」は学務課に移管されたが、「女紅場」は引き続き勧業課の管轄下に置かれた。 1882年明治15年6月に「女紅場」の名は廃止され、この学校は単に「京都府女学校」と称されることとなった

※この「新英学校及女紅場」の解説は、「女紅場」の解説の一部です。
「新英学校及女紅場」を含む「女紅場」の記事については、「女紅場」の概要を参照ください。

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