新聞小説の歴史――芥川龍之介の主な作品を通して
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漱石を師と仰ぐ芥川龍之介は、「狢(むじな)」のような短い作品を『読売新聞』(1917・3・11)に発表することもあったが、本格的な新聞小説としては『大阪毎日新聞』夕刊の「戯作三昧」(1917・10・20~11・4、15回)が最初であった。芥川は、『朝日新聞』のライバルであった同紙と1918年3月に社友契約を結び、翌年4月には社員となった。「出社の義務を負わず、年に何本かの小説を寄せ、他の新聞には執筆しない」という契約内容を見ると、漱石の『朝日新聞』入社を思い起こさせる。社友契約後最初の作品は「地獄変」(1918・5・1~22、20回)であり、これ以降は「邪宗門」(1918・10・23~12・13、32回)その他、『東京日日新聞』(朝刊)にもほぼ同時に掲載された(当時の『東京日日新聞』にはまだ夕刊がなく、発行されたのは1923年9月からである)。芥川が同紙の社員になってからの第一作は、「路上」(1919・6・30~8・8、36回)であり、その後の作品には、「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」(1920・3・30~6・6、45回)、「奇怪な再会」(1921・1・5~2・2、17回)、「上海遊記」(1921・8・17~9・12、21回)、「江南遊記」(1922・1・1~2・13、28回)があるが、芥川の新聞小説の数は意外に少なく、社員になってからも他のメディアへ発表する作品の方が多かったという点で、漱石とはひじょうに違っている。ある書簡の中で、「毎日うんうん云ひながら新聞小説を書いている」と述べているが、執筆に苦労し休載する日が多かったという点でも漱石とはだいぶ差があり、芥川は新聞の執筆形態には向いていなかったのかもしれない。
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