新左翼と社会的マイノリティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:52 UTC 版)
「日本の新左翼」の記事における「新左翼と社会的マイノリティ」の解説
1970年の華僑青年闘争委員会による「華青闘告発」に新左翼各派はこれに強い衝撃を受け、自己批判をする党派が多発した。 1969年〜71年までの反入管運動では在日韓国青年運動が積極的な運動を行った。 1967年の第一次羽田闘争に参加した沖縄出身者の学生が処分されたことから「与那覇君を守る会」が関西でおこり、やがて沖縄学生闘争委員会準備会(沖闘委)が誕生した。沖闘委は沖縄青年委員会に発展するが、中核派系と海邦派系に分裂し、ノンセクト・ラジカルで沖縄自立派の海邦派は1971年に沖縄青年同盟を結成する。1971年10月、沖縄青年同盟のメンバーは沖縄の日本復帰への拒否を訴え、東京の国会で爆竹を鳴らした「沖縄国会爆竹事件」を起こす。 1960年代から障害者解放闘争が活発となっていく。障害者団体の全国青い芝の会の運動に学生が参加したり、安保闘争に障害者が参加する動きがあった。後に在宅障害者の保障を考える会(在障会)を結成することになる新田勲、三井絹子らが中心となって闘った1972年の府中療育センター闘争でも学生たちがこれに参加したり、障害者の介助を行ったりした。他、幾つかの新左翼党派はS闘争に取り組み、この運動が契機となり全国「精神病」者集団の結成につながった。 竹中労・平岡正明・太田竜らは、窮民革命論を唱えた。アイヌ解放同盟、船本洲治の活動や映画「山谷─やられたらやりかえせ」が著名である。寄せ場の日雇い労働者と学生による連帯の動きもあった。
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