文治政治の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 21:41 UTC 版)
初代将軍徳川家康から3代将軍徳川家光までの治世は武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固める為の時期であった。 幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩、譜代大名、外様大名の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業した浪人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。 また、征夷大将軍としての武威を強調するために行われた、大名による参勤交代や手伝普請などは、大名にとって多額の出費になり、そのしわ寄せは百姓の生活苦につながった。そして、1640年から1643年頃におきた、寛永の大飢饉の被害が全国規模に及んだことは、武威に依拠した当時の限界を露呈することになった。 家光が病没すると、後継である4代将軍徳川家綱が幼弱であった為、慶安4年(1651年)に由井正雪は丸橋忠弥等と共謀し、家綱を奪取し、幕政批判と浪人救済を掲げる反乱を企てた(慶安の変)。また、別木庄左衛門による老中襲撃計画(承応の変)もあり、幕閣は武断政治からの方針転換を迫られることとなった。
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