文字記録による沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:49 UTC 版)
「アルタル・デ・サクリフィシオス」の記事における「文字記録による沿革」の解説
石碑に刻まれた年代は、石碑10号の9.1.0.0.0.(9バクトゥン1カトゥン0トゥン0ウィナル0キン、長期暦 (Long Count) で西暦に直すと455年、通常9.1.0.0.0.と表現される。以下単位を略す)から始まり、771年の日付が刻まれた石碑15号で終わっている。石碑の一連の組み合わせはアルタル・デ・サクリフィシオスの王の代替わりを反映しており、古典期前期の455年から524年までに三代の王がいて、グループBの建造物を建てた。その後、589年を示す年代まで中断している。このとき即位した王は、633年までその勢力を保った。この王のあとは4代の王が直ちに王位を継承し、662年まで王朝が続いたことがわかっているが、その後は石碑が建てられているものの、王位継承についてははっきりしていない。このときの王たちは、グループAの南側のプラザ(中庭)を囲む建物を建設した。石碑が建てられなくなったことによって、アルタル・デ・サクリフィシオスの王朝が独立を失ったと考える研究者もいるが、9世紀まで建造物が建てられ続け、遺跡が祭祀センターとして機能してきたことはわかっている。 9.10.0.0.0.(633年)が刻まれた石碑9以前は砂岩、9.10.10.0.0.(643年)が刻まれた石碑4以降は石灰岩で作成されており、石碑の材質と刻まれた長期暦の関係が指摘されている。砂岩の石碑は455年の石碑10から633年の石碑9までで、グループBかグループAの南側プラザに位置する。石灰岩の石碑は643年の石碑4から771年の石碑15までで、全てグループAの北側プラザに位置する。祭壇1など長期暦が刻まれていないモニュメントも633年以前の砂岩時代か、643年以降の石灰岩時代かに区分することができる。
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