教職に就くまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:31 UTC 版)
東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。戸籍には誤りで「栄次郎」と記載されるが、本人は「栄治郎」で通した。尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒業、銀時計受領。在学中に農商務省が刊行した『職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。1918年、工場法の研究のため米国に出張し、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、米国労働総同盟(AFL-CIO)会長のサミュエル・ゴンパーズら労働運動の指導者と会見する。帰国後第1回ILO(国際労働機関)会議に対する日本政府方針草案の起草に尽力したが、その改革案は容れられず辞職した。この間の経緯を『朝日新聞』紙上に1919年11月17日から12月2日まで「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。
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