教会員および大学からの長期にわたる反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/23 14:04 UTC 版)
「チャールズ・シメオン」の記事における「教会員および大学からの長期にわたる反発」の解説
シメオンは主教の権限により招聘されたが、教会員は彼に反発を示した。教会員は自分たちを楽しませてくれる牧師を求めていたのだ。そのため、福音を語るシメオンが牧師になると、教会員たちは会堂のすべての座席に施錠をした。当時、教会の座席は、それぞれ個人の所有となっており、所有者が来ない時には、他の人が座らないよう鍵を掛ける習慣があったのだ。シメオンは新しい座席を作り、通路に椅子を並べたが、役員がそれらを外に投げ捨ててしまった。日曜日は午後にも講演があったが、教会員は別の人を講師として招いた。シメオンは夕拝を始めようとしたが、役員によって、会堂のドアに鍵が掛けられてしまう。そのような反対運動は12年も続いた。しかし1794年にシメオンはようやく午後の講演を許されるようになる。座席を閉鎖したり、教会の扉に鍵を掛けるのは違法だったが、シメオンは法に訴えようとせず、福音を宣べ伝え、祈り、市街で活動することによって、抵抗に打ち勝ったのだ。最初の頃には、教会員のみならず、学生たちも、邪魔をするためだけに礼拝に出席していた。会堂の窓にはレンガが投げられ、シメオン自身、卵を投げつけられたこともあった。大学の教師たちはシメオンを避け、また学生たちがシメオンの講義に出席できないよう、必修科目の講義を同じ時間に行った。シメオンの主のための働きは、そのような困難の中でなされていったのだ。しかし、53年間の忠実な働きを通して、シメオンは大学の人々と市民の心を掴んでいった。彼の葬列は、(ナポレオン・ボナパルトに勝ち、首相になった)イギリスの英雄ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーのそれよりも長かったという。
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