撤退の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 04:01 UTC 版)
当初の計画は、イギリス海外派遣軍(BEF)の将兵のうち45,000名を2日で回収するというもので、これはドイツ軍が撤退阻止行動を開始するまでの時間を予測してのことであった。しかし、この期間に初日の7,000名を含む25,000名しか脱出できなかった。5月27日早朝、10隻の駆逐艦が増援され救出を試みたが浜に近づくことができず、数千名が救助できたにとどまった。とはいえ、狭められつつあるダンケルク包囲網からの撤退のペースは着実に上がっていた。 しかし同日、ベルギーが降伏したため、連合国軍は5月28日までにフランス側の拠点であったフランドルを放棄。約50万の兵士は雪崩を打つように退却を始め、多くはダンケルクに殺到した。 5月29日、夕方にドイツ空軍の最初の重爆撃があったにもかかわらず47,000名のイギリス軍兵士が救出されたが、爆撃により多くの艦艇が被害を受けた。さらに、この夜、ダンケルク港の水門がドイツ空軍の爆撃により破壊された。ダンケルク港は水門で潮位をコントロールしていたため港の機能は損なわれ、連合国軍が海上に脱出する手段は小型ボートに限られることとなった。 それでも次の日、最初のフランス軍兵士を含む54,000名が乗船した。5月31日、68,000名およびBEF指揮官が救出された。6月1日、日中の撤退を阻止する爆撃が激しくなる前にさらに64,000名の連合軍兵士が出発した。6月2日夜、イギリス軍後衛が60,000名のフランス兵とともに出発した。さらに26,000名のフランス兵が次の夜、作戦終了前に回収された。 フランス軍2個師団は撤退を援護するために残った。彼らはドイツ軍の進撃を阻止したが、間もなく捕らえられた。1940年6月3日、殿軍部隊の残余、フランス軍の大部分は投降した。翌日、BBCは「(殿軍部隊の指揮官)ハロルド・アレクサンダー少将は今朝、モーターボートでダンケルクの海岸を視察し、イギリスへ帰る最後の船が出発する前に乗り遅れたものがいないか確認した。」と伝えた。 6月4日、ドイツ軍はダンケルクを完全占領を宣言。約40000人の兵士が捕虜となり、ドーバー海峡に面したフランスの諸港は全てナチス・ドイツの支配下となった。
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