控え帖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:17 UTC 版)
「ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク」の記事における「控え帖」の解説
Sudelbücher は、リヒテンベルクが学生時代から亡くなる直前まで書き溜めたノートである。ノートは1冊ごとにアルファベットが振ってあり、"A" は1765年に書き始められていて、"L" が最後の1冊である。 これらのノートはリヒテンベルクの死後、その存在が明らかになり、兄弟や息子達がその内容をまとめた Lichtenbergs Vermischte Schriften の初版 (1800-06) と第2版 (1844-53) を出版した。しかしその出版当初から、"G" と "H" のノートが紛失しており、"K" の内容の大部分も破損していた。それらには微妙な内容が含まれていたため、親族が秘匿したと考えられている。それら以外のノートはゲッティンゲン大学に今も保管されている。 ノートにはリヒテンベルクが感銘を受けた引用、読んだ書名、自伝的描写、様々な考察が書かれている。中でも考察部分がリヒテンベルクを死後に有名にした。今日、リヒテンベルクは西洋史上最も有名な格言家とされている。 何人かの学者は、リヒテンベルクの断片的な熟考から体系的な哲学を抽出しようと試みた。しかし、リヒテンベルクはプロの哲学者ではなく、他者に読ませることを意図せずに書いていたため、一貫した哲学にはなっていなかった。 とは言うものの Sudelbücher は批判的かつ分析的な思考方法を明らかにし、物理学における実験の重要性を強調しており、それによってリヒテンベルクは現代の科学的方法論を確立し擁護した初期の1人とされるようになった。 リヒテンベルクの考察は人間の性質の観察にも及んでおり、17世紀フランスの倫理学者のような見方を披露している。 ショーペンハウアーは、リヒテンベルクがノートに書いたことから、彼を大いに賞賛している。ショーペンハウアーはリヒテンベルクを、自ら考える人の1人であり、本物の思想家の1人であるとした。他にも、ニーチェ、フロイト、ウィトゲンシュタインがリヒテンベルクのノートを賞賛している。リヒテンベルクのノートはドイツ国外ではそれほど読まれていない。レフ・トルストイはリヒテンベルクの文書への高い敬意を持ち、「最近のドイツ人はなぜこの作家をそれほど無視するのか」と当惑を表した。中国人哲学者である錢鍾書 (Qian Zhongshu) は、何度かリヒテンベルクのノートを引用している。月にはリヒテンベルクの名を冠したクレーターがある。
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