急死とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:51 UTC 版)
1927年(昭和2年)5月、三河水力電気(後の中央電力)の取締役に就任。同社は大手電力会社東邦電力の傍系会社で、矢作川での電源開発を目的としていた。次いで1930年(昭和5年)8月、岡崎電灯が東邦電力傘下に入った結果新設された中部電力(岡崎)の取締役にも就任した。こうして多数の会社に関わり「東三の事業王」と呼ばれた今西であったが、1932年(昭和7年)末ごろから体調を崩し、名古屋医科大学附属医院に入院。翌1933年(昭和8年)4月23日、肺癌のため死去した。49歳没。葬儀は豊橋市内の浄円寺にて行われ、一周忌の際には会社関係者らによって寺に「謝恩碑」が建てられた。 社長武田賢治・専務今西卓の組み合わせで経営されてきた会社では、今西の急死により社内に動揺が走ったものが少なくなかった。例えば豊橋電気軌道では、2か月後の1933年6月、会社財政再建のためとして武田が一部社員に対して25 - 30パーセントの減俸を通告すると、社員代表3名が武田に面会を求め身分保障を要求するという争議に発展する。今西の死による求心力低下で武田は社内の混乱を収めることができず9月会社から退いた。武田は翌1934年(昭和9年)1月豊橋電気社長も辞職、その他の社長職もすべて失い、その後一時豊橋電気社長に復帰するも1937年(昭和12年)に病没している。
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