御家騒動と改易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)
だが最上家中には、義光が勢力拡大をするに及んで従わせた豪族や豊臣家への奉公を考える反主流派と、関ヶ原で取り立てられ徳川家への奉公を考える主流派の抗争があり、この争いは反主流派に担がれていた義光の嫡男義康が殺害されるに及んで頂点に達した。慶長19年(1614年)1月に義光が死去し、次男の家親が第2代藩主になると、6月に反主流派は庄内の一粟兵部が反乱を起こすという軍事行動を起こした。これは一粟が主流派の志村光惟と下秀実を殺害して起こしたもので、この反乱を鎮圧した家親は反主流派に担がれていた実弟の清水義親を殺害した。これで御家騒動は一段落したに見えたが、元和3年(1617年)3月に家親が山形において急死したことにより、内紛が再燃した。家親の後継者には息子の家信(後の義俊)が立てられたが、わずか13歳の少年のため、幕府から厳しい内政干渉を受けての相続だった。 元和8年(1622年)8月、最上家は家親変死の訴えの他、家親の弟山野辺義忠を擁立しての反主流派の蠢動などいわゆる最上騒動と呼ばれるお家騒動のため、武家諸法度違反により改易となった。義俊には近江大森藩にわずか1万石をもって転封となる。
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