徐温の後継者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:56 UTC 版)
楊行密は淮河以南長江以北の地に確固たる勢力を確立し、天復2年(902年)には呉王とされた。楊行密の死後は徐温が呉の政治の実権を握った。 成人した徐知誥は徐温のコマとして働かされることとなる。天祐6年(909年)に徐知誥は昇州防遏使兼楼船副使に任命された。昇州の中心都市は金陵であり、徐温はこの金陵を自らの勢力の拠点にしようとしていたのである。そのために自分の養子である徐知誥を昇州防遏使に、すなわち昇州の防衛官に任命したのである。また、楼船副使とは水軍の副指令であり、当時長江の下流や上流に敵を抱えた呉にとっては重要な役職であった。 天祐9年(912年)には戦功により昇州刺史に任命され、昇州をよく治めた。この時、徐知誥は人材を広く集め、宋斉丘などの有能な側近を手に入れた。 徐温は自らの政権を確実にするために、呉の主要部を自らの親族で固めた。徐温自らは、昇州に駐屯して呉の政治を操り、実子の徐知訓を都の揚州においてこまごまとした政務をとらせ、徐温の昔の拠点である潤州には徐知誥を置いたのである。天祐14年(917年)に徐知誥は昇州から潤州に転任した。 徐知誥が有能であるといっても、徐温にとっては養子ではなく、やはり実子である長男の徐知訓に後を継がせようとしていた。しかし、徐知訓は有能ではなく、むしろ放蕩息子であった。徐知訓は徐知誥と仲が悪く、徐知誥を宴会中に殺そうとした事もあった。 天祐15年(918年)6月、徐知訓は揚州で殺された。これを聞いた徐知誥は即座に揚州に入り、揚州での騒ぎを収拾した。このあまりにも素早い対応に、徐温は徐知誥が仕組んで徐知訓を殺したのではないかと疑った。しかし、呉では徐知誥の声望が高く、徐知訓が無茶苦茶な人間であることも知れわたっていた。その為に徐温も敢えて徐知誥に手を出すわけにはいかなかった。また、徐温には、この時徐知訓の他には成年に達した実子はいなかった。その為、徐知誥をいやおうなしに使わざるを得なかったのである。 翌月、徐知誥は淮南行軍節度副使・内外馬歩督軍副使に任命された。これは生前の徐知訓と同じ役職であり、徐知誥が徐温の代理人として都の揚州に駐在して政治を行っていくことを意味した。 天祐16年(919年)7月には呉越との戦いで呉軍を率い、大勝した。また、内政面では民力休養を推し進めた。 徐知誥は揚州で政務を執ることで日増しに力をつけていった。徐温は徐知誥が強力になりすぎるのを恐れた。順義7年(927年)、徐温は徐知誥を失脚させようと決意し、自分の次男である徐知詢に政務を執らせようとした。しかし、徐温はこれを行う直前に没したのである。
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