徂徠学の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:55 UTC 版)
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派、日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。 主著『弁名』『弁道』では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代中国の聖人(先王)の時代には儀礼や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を南宋時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「六経」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。
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