強豪球団として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:23 UTC 版)
「カンザスシティ・ロイヤルズ」の記事における「強豪球団として」の解説
1975年のシーズン途中でマキーオンに代わりホワイティ・ハーゾグが監督に就任。ハーゾグの下でチームの機動力や守備力は更に昇華し、ロイヤルズにはブレットやホワイトに加え、ウィリー・ウィルソン、エイモス・オーティス、アル・コーウェンズ、ハル・マクレーといった機動力と守備力を兼ね備えた選手達が名を連ねた。1976年には2位アスレチックスを振り切って初の地区優勝。同年にはブレットが打率.333で首位打者に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではニューヨーク・ヤンキースと対戦したが、2勝2敗で迎えた最終戦でサヨナラ負けを喫した。1977年には102勝60敗という圧倒的な成績で地区2連覇、翌1978年もカリフォルニア・エンゼルス、テキサス・レンジャーズを振り切り、地区3連覇を果たした。しかし、続くリーグチャンピオンシップシリーズではいずれの年もヤンキースに敗れ、三度ヤンキースにリーグ優勝を阻まれることとなった。 1979年は地区2位に終わり、翌1980年には新たにジム・フライが監督に就任する。同年にはブレットがシーズン終盤まで打率4割を維持し、最終的に打率.390という高打率を記録(戦後ではアメリカンリーグ最高)、またウィルソンも球団記録となる133得点、230安打を記録した。彼らの活躍もありチームも4度目の地区優勝を果たし、リーグチャンピオンシップシリーズでは再びヤンキースと相まみえた。そしてヤンキースに2連勝し王手をかけた第3戦、ヤンキースのクローザーだったリッチ・ゴセージからブレットが逆転の3ランを放ち、初のリーグ優勝を決めた。しかし、ワールドシリーズではマイク・シュミット擁するフィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で敗れ、ワールドチャンピオンはならなかった。 1981年には50日間に及ぶストライキによってシーズンが前後期制となり、前期は20勝30敗と不調が続いた。そのため後期にはフライに代わり、前年までヤンキースの監督を務めたディック・ハウザーが監督に就任する。その後チームも盛り返して後期優勝を果たすものの、前期優勝したアスレチックスとのディビジョン・シリーズでは3連敗で敗れ去った。1982年、1983年と2年連続で地区2位だったが、1983年のシーズン途中には有名なパインタール事件が起きている。またシーズン後にはウィルソン、バイダ・ブルー、ウィリー・エイキンズ、ジェリー・マーティンの4選手によるコカインの使用が発覚し、ブルーを除いた3選手に対してMLBコミッショナーのボウイ・キューンが1年間の出場停止処分を科したが、その後に見直されて1984年5月に処分が解除された。
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