強制徴募騒ぎと総督への反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:17 UTC 版)
「ウィリアム・シャーリー」の記事における「強制徴募騒ぎと総督への反発」の解説
シャーリーがルイブールに滞在していた頃、イギリス海軍とボストンの住民との間でごたごたが起こっていた。イギリス海軍は長きにわたって、艦隊の任務に無理やり入植者をつかせようとしていた。この強制徴募はイギリスでは長い間の習慣であったが、アメリカでのこの方法の適用は、入植者から反発された。1702年に、キャッスル島のウィリアム砦から、イギリス軍艦スウィフトに砲撃が加えられたことがあった。スウィフトが強制徴募したばかりの男6人を連れて、ボストン港を出港したからだった。植民地側の不満の結果(この不満を強めたのはイギリス商人だった)、1708年にイギリス議会はアメリカ植民地での強制徴募を禁じた。イギリス海軍は、アメリカで強制徴募免除が施行されたのは、アン女王戦争の間だけだったと主張し、海軍の艦長たちは、実際に、アメリカ植民地の総督たちに強制徴募の免許を適用せざるを得なくなった。1745年の11月の末、徴募隊と、ボストンの下宿屋に起居していた数人の水兵との間でけんかが起こり、水兵のうち2人が致命傷を負った。徴募隊のうち2人は殺人で告発され、有罪判決を受けた。しかし起訴は無効とされて釈放された。 その2年後、イギリス海軍代将で、攻略後のルイブールの総督を務めているサー・チャールズ・ノウルズが、自らの部隊の任務のために、多くの強制徴募した水夫を乗せてボストン港を発った。300人の暴徒と化した一団が3人の海軍士官と士官代理を取り囲み、士官代理を殴った。彼らはその後シャーリーの家に行き、ノウルズに徴募された者たちの釈放を要求した。シャーリーは民兵を召集しようとしたが、誰も応じようとしなかった。シャーリーはこの海軍士官を家に入れることにどうにか成功し、結局暴徒は去って行った。その同じ日、シャーリーは州会議事堂へ向かった、暴徒は今度は数千人規模となっており、タウンハウスを攻撃し、建物の窓の多くを壊した。シャーリーは暴徒たちに話しかけ、彼らの要求をノウルズに伝えると約束した。暴徒たちは、イギリス軍の艦を見つけて焼くためにその場を去って行った。 その日の午後、シャーリーが家に戻ると、暴徒たちが、自宅に向かっていた別の海軍士官と数人の下士官を取り巻いていた。シャーリーは自分の家を守っていた大勢の武装勢力に命令し、暴徒たちに銃を発射するよう命令したが、ウィリアム・ペッパーレルがそれを制止して、暴徒たちを説得して立ち去らせた。暴徒が立ち去るまでの間、ノウルズが、自分の部隊を使ってボストンを砲撃すると脅した。結局暴徒たちは人質を解放し、ノウルズも徴募した水夫を自由にした。
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