張騫乗槎説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:05 UTC 版)
『史記』の大宛伝の末尾には、張騫は大夏より帰国した後に黄河を遡ってその源流を突き止めた、と添え書きがある。もっとも、この記述は事実と言うよりも張騫が行った長大な旅を比喩したものと考えられるのだが、この一節が西晋の張華が奇聞・伝説を集めて著した『博物志』の中にある「ある人が不思議な浮槎にのって海を渡り、天の河を遡って牽牛・織女に会った」という説話と合体し、「張騫乗槎説話」として発展した。 張騫乗槎の類話は荒唐無稽で矛盾点も多いが、張騫が河源から持ち帰った支機石(織女の機を支えていた石)や、張騫が使った槎といった遺物が現れるなど、七夕伝説とともに人口に膾炙する逸話となった。また、張騫乗槎のイメージは散文や漢詩のモチーフとして好まれた。詩文の世界では張騫は博望(博望侯)の名で詠み込まれている場合もある。 天平勝宝3年(751年)に成立した漢詩集『懐風藻』には、張騫と特定していないものの乗槎説話を詠み込んだ漢詩がいくつか見られることから、日本に張騫乗槎説話が流入したのは奈良時代以前のことと考えられる。その後も和歌や漢詩の知識とともに受け継がれ、12世紀前半の『今昔物語集』には説話として採録されている。 室町時代以降には張騫乗槎説話は漢画の画題として狩野派などに好まれ、「張騫図」・「乗槎図」と呼ばれる作品が数多く描かれた。張騫図には漢人風の人物が丸木の上に座ったポーズのものと、棹を持って立ったポーズのものがある。後者の図像は日本特有のもので、角乗りのイメージが投影されていると考えられる。
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