張騫の西域訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:09 UTC 版)
前漢の武帝は、月氏と手を組んで匈奴を挟撃しようと考え、月氏への使者を募集した。そこで、郎であった張騫が使者となり、匈奴人の堂邑の甘父ら100人あまりとともに隴西を出た。しかし、すぐに匈奴に捕まってしまい、10年あまりも抑留された。ある時、監視が緩まったのを機に脱出し、西へ行くこと数十日、大宛に到着した。 大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の康居まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である大月氏まで送ってやった。 ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは西域南道を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。張騫たちは匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ太中大夫・奉使君にとりたてられた。
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