広まった河内十人斬り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:15 UTC 版)
「河内十人斬り」の記事における「広まった河内十人斬り」の解説
大阪の片田舎で起こったこの惨殺事件は、女と金と仁義と様々な要因が絡んだ事件として、多くの新聞が取り上げ、話題をさらった。事件の起こった年に、芝居や小説になった。 そして、富田林署の署長お抱えの人力車夫の初代岩井梅吉(本名・内田梅吉)が、捜査情報を元に趣味であった河内音頭に歌詞をつけようと思ったが梅吉は文字を書けなかった。そこで友達である松本吉三郎(現存する河内音頭の会である岩井会6代目・岩井梅吉の父親、現在は9代目)が河内音頭の平節に歌詞をつけた。そして事件が起きて1ヶ月後の6月に、道頓堀の五座(朝日座、難波座、中座、弁天座、角座の5つ)の中のひとつである中座で『河内音頭恨白鞘』(かわちおんどうらみのしらさや)を講演したところ、たちまち45日間も続く大ヒットとなった。 この頃歌われていた音頭は古い題目、すなわち義士ものや、任侠ものが多く歌われていた。そして岩井梅吉が歌った『河内十人斬り』は、実際最近起きた出来事を歌っていて、当時の人からしたら新しいものだった。このような実際に最近起きた出来事を音頭にすることは「新聞(しんもん)読み」と呼ばれる。当時は義務教育も普及しておらず、大部分の民衆は文字を書くことはおろか、新聞も読むことが出来なかった。そこで多くの民衆は、この事件の有様を河内音頭で知ることが出来た。 「男持つなら熊太郎弥五郎、十人殺して名を残す」と河内音頭に歌われ、この演目はヒットして浪曲にも残り現代まで伝わり、作家の町田康の小説『告白』の題材にもなった。
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