広まる唐物抜荷の噂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
薩摩藩が関与した琉球を通じて入手した中国産品、いわゆる唐物抜荷については、やがて風説を交えながら様々な疑惑として取り沙汰されるようになる。文政年間以降、幕府は薩摩藩から抜荷を行う船が運行されていることを把握するようになった。噂は幕府内ばかりではなく、民間にも広まっていた。例えば抜荷で主力取り扱い品目のひとつであった朱は、慶長14年(1609年)に朱座が設けられて以降、朱と朱墨は国内産、輸入品を問わず朱座に属する商人の独占販売とされていた。天保3年(1832年)、松浦静山は絵師と考えられる人物から、中国製の朱が薩摩の船によって新潟に運ばれ、そこから江戸など各地へともたらされており、朱座の商人から購入する正規品よりも安価であり、越後の門人に依頼すれば江戸よりも質の良い朱が入手できること。そして松浦静山の主治医の使用人からは越後生まれの人物からの話として、薩摩船が漢方薬種を積んで来るので、越後ではとても安く漢方薬種が入手できるため、薩摩船を持て囃しているとの情報を甲子夜話に記している。 天保6年(1835年)3月、老中大久保忠真は勘定奉行土方勝政に対して、薩摩藩に関する抜荷についての風説をまとめた風聞書を手渡した。その中で、多くの抜荷品目が北国(北陸)筋、越後あたりへ送られ、売りさばかれているとの記述がなされていた。翌月、土方は蝦夷地の松前で買い入れられた上級品の煎ナマコが抜荷となって、薩摩に出回っているとの申し立てが長崎会所にもたらされたため、天保4年(1833年)に越後の港湾等の巡検を行ったところ、確かに松前産の煎ナマコが大量に出回っており、それらが薩摩船に積み込まれているのは間違いないとの報告があった等の報告書を提出した。 蝦夷地で産出された煎ナマコ、昆布等の海産物は、長崎における貿易で俵物として輸出するため、長崎へ搬送されるべきものであった。その海産物の多くが抜荷として薩摩藩に流れていることが明るみに出たのである。つまり薩摩藩は琉球を通じて入手した朱、漢方薬等を抜荷として北陸、越後方面に運んで売りさばき、帰途にはやはり蝦夷地から抜荷として持ち出された煎ナマコ、昆布等の俵物を積んでいくという構図が明らかになりつつあった。このようにして入手された煎ナマコ、昆布等の俵物は薩摩から琉球に運ばれ、さらに琉球貿易の主交易品として大量に中国へと流れていった。
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