平泉澄の皇国史観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
このように、江戸時代的大義名分論からも、実証主義歴史学からも、後醍醐天皇愚君説が掲げられる中、1930年代、例外的に後醍醐を再評価した異端児が皇国史観の代表的研究者であった平泉澄である。 平泉は、『建武中興の本義』(1934年)において、建武政権の良い点については、多くの史料をあげ論証していき、特に『太平記』以来の定説である恩賞不公平説を退けた。亀田俊和の主張では、恩賞不公平説を反証する際に用いられた実証的手腕は、2016年時点の研究水準から見ても納得できるものであるという。 ところが、建武政権の失敗については、「腐敗」した人民と「逆賊」足利尊氏に全ての責任を一方的になすりつけた。その妥当性はともかく、実はそれまでにはなかった視点という意味では、研究の新規性はある。 亀田は、平泉の皇国史観では前近代的な大義名分論が復活したことにより、全体的な研究水準はかえって後退してしまった、とする。しかも、「逆賊」足利尊氏を排撃する余り、建武政権と室町幕府の倫理的な断絶性が強調されたため、実証的には弱い面があった。その上、このわずか10年余り後、1945年の第二次世界大戦の日本敗戦によって、平泉は公職を追放されて存在そのものがタブーとなり、独創的・画期的な部分もあったとはいえ、後世に影響力をほとんど持たなかった。
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