平泉志の記述
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明治初期に著された『平泉志』には一説に「仙北五郎利衡」という名が見られることが指摘され、この人物は通衡と同一人物という推測がある。
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平泉志の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 17:03 UTC 版)
明治初期に著された『平泉志』には、「本吉冠者隆衡は数箇所に奮戦し、平泉没落の際に俘虜となりて降を請ひければ(文治5年9月18日)、賴朝卿其武勇を愛惜せられて死を免し相模國に配流せらる」とある。高衡が相模国に配流となったことは『吾妻鏡』にも記載があるが、それ以外のことについては『吾妻鏡』にはない記載である。この『平泉志』の記載が事実であれば、高衡は奥州合戦で高舘城での戦いだけでなく何度か転戦し、しかも頼朝からその武勇を惜しまれるくらいの戦いぶりをしたということになる。『平泉志』は後世の記録物である為、高衡と頼朝に関するこの記述は容易く信頼できないが、大河兼任の乱の戦況報告を聞いていた頼朝はその報告中に橘公業討ち死に・由利維平逃亡とあったことに対し、2人の性格から由利維平討死・橘公業逃亡の間違いだろうと推察した。翌日、後発の詳細報告が到着し、頼朝の推察通りであったことからその場にいた一同は感嘆したという(『吾妻鏡』建久元年正月18日、19日条)。頼朝が御家人それぞれの性格を熟知していたことの例として知られる。このように頼朝の人を見抜く目は確かであったことから、高衡に関しても、その人物像を見抜いていたと考えて何ら不思議なことではない為、この記述は安易に肯定もできないが、かといって安易に無視することもできない。また、高衡は院と繋がりを持っていた可能性も存在する為、その関係上、助命・配流の処分となったのかもしれない。
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