平城ニュータウン町名変更問題
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「平城・相楽ニュータウン」の記事における「平城ニュータウン町名変更問題」の解説
1985年(昭和60年)以前 1972年(昭和47年)7月 - 平城ニュータウンの通称町名が「神功」「右京」「朱雀」「左京」と決まる。これは平城京跡に近いことから往時を偲んだ鍵田忠三郎奈良市長(当時)が付けたもので、市長は将来行政町名にすることを約束。 1986年(昭和61年) 8月 - 土地区画整理法により、住宅・都市整備公団の換地処分公示が終わる1987年3月まで住居表示を統一しなければならない奈良市は、住居表示審議会を開き、通称町名をそのまま行政町名にすることを諮問。これについて同審議会副委員長網干善教関西大学教授ら一部地元住民が、平城ニュータウンの位置が平城京域とは重ならないことなどから、歴史教育の意義を失うとして行政町名を新たに決めることを主張。一方、多田羅勇右京自治連合会長らは「十年以上使っており、愛着さえある。変更されれば各戸が不意の経費を強いられる」と存続を求めた。 9月 - 自治会主催の公開シンポジウムが開かれ、存続派・変更派それぞれが意見を主張。なお、これに合わせて全住民を対象に行われた意向調査では、全ての地区で85%以上の住民が存続を希望した。その後意見対立が解消しないため、住居表示審議会が地元住民、学識経験者、市議会議員ら8人からなる特別委員会を設置。 12月 - 14年間混乱なく使われてきた実績から、奈良市議会が通称町名を正式地名として議決。 1987年(昭和62年) 4月 -「神功」「右京」「朱雀」「左京」が行政町名となる。 網干善教関西大学教授が「奈良市の名誉のために、だれかが正論を貫かねばならぬ。私はその一人になる」として、5月1日の全国地名連盟総会で奈良市民憲章の趣旨を引用しながら町名変更問題を取り上げる予定であることを明らかにする。
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