常滑水野家(監物家)
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1.政祖(まさもと) 半左衛門 河内守 貞守の次男 1.忠綱 監物 常滑城主 享禄2年(1529年)7月23日卒、法名・全勝 1.某 山城守 大和守 常滑城主 某年死す 法名・花鴎 1.守次(守隆) 監物 慶長3年(1598年)4月21日卒、法名・雲室全慶落城の後、嵯峨に住す。妻は水野信元の女。墓所は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68天龍寺妙智院。 1.某 (新七) 天正12年(1584年)小牧の役にて戦死 2.守信 半左衛門 河内守 寛永13年12月22日(1637年1月)卒、年60家康に仕え、関ヶ原の戦いの後に長崎奉行、次いで大坂と堺の町奉行を勤め、寛永9年より大目付。後5,000石となる。法名・全叟宗完。 居城は常滑城(愛知県常滑市山方町)で、忠綱およびその子の墓所は同市山方町5-106の天沢院である。「政祖」の名がみえるのは『寛政譜』のみ。『寛永系図』の「水野-坤」では「某・山城守・法名花鴎」-「守次・監物」とするが、忠政との関係は明らかではない。また『士林泝洄』巻36は「大和守・常滑城主」-「大和守」-「守隆・監物」とし「大和守・常滑城主」を忠政の兄弟とする。ただしこれが『寛政譜』にいう監物「忠綱」のことなのか明らかではない。 子孫は、河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って大目付、後に大身旗本となった。また戦死した「新七」の後には「信元」の孫八郎衛門(あるいは新七郎)が養子に入って「水野保雅」を名乗り、尾張藩士となっている。守信の墓所は父「守隆」と同じ京都・天龍寺の永明院(同町60)、養子にはいった「保雅」のそれは常滑市社辺64の総心寺である。 「保雅」の実母は水野信元の娘で法名「栄寿院転誉清心」(あるいは「博誉清心」)、養母も同じく信元の娘「向陽院花影総心」であるという(「士林泝洄」巻36)。向陽院は監物守隆の妻で、剃髪後熱田に居住した(『張州雑志』復刻1巻650頁)。 「士林泝洄」巻36「水野」は、「総心」の養子となった八郎右衛門「某」の母を「信元」の娘とし、同時に「中山五郎左衛門」(勝時)の子であるとする(名古屋市蓬左文庫所蔵本「藩士名寄」稿本版122‐125巻126項の記述も同様)。他方「士林泝洄」巻69「大崎」によると「信元」の娘を妻とした「大崎七郎右衛門」昌好(元和6年・1620年卒)の下に八郎右衛門「保雅」(承応元年・1652年卒)をかけている。その姓を「水野」と明記しており、養子となったのはこの「保雅」と考えられる(前掲『張州雑志』に同趣旨の記述あり)。しかし彼が昌好の実子であるのかどうかは記されていない。保雅の娘が「七郎右衛門妻」となっているが、これは七郎右衛門「昌継」(寛永11年・1634年卒)の子、七郎右衛門「昌次」(延宝3年・1675年卒)の妻と考えられる(「士林泝洄」巻69)。
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