常滑水野家とは? わかりやすく解説

常滑水野家(監物家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:39 UTC 版)

水野氏」の記事における「常滑水野家(監物家)」の解説

1.政祖(まさもと) 半左衛門 河内守 貞守の次男 1.忠綱 監物 常滑城主 享禄2年1529年7月23日卒、法名全勝 1.山城守 大和常滑城主 某年死す 法名・花 1.守次(守隆) 監物 慶長3年1598年4月21日卒、法名雲室全慶落城の後、嵯峨住す。妻は水野信元の女。墓所京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68天龍寺妙智院1.某 (新七) 天正12年1584年小牧の役にて戦死 2.守信 半左衛門 河内守 寛永13年12月22日1637年1月)卒、年60家康仕え関ヶ原の戦いの後に長崎奉行次いで大坂と堺の町奉行勤め寛永9年より大目付。後5,000石となる。法名・全叟宗完。 居城常滑城(愛知県常滑市山方町)で、忠綱およびその子墓所は同市山方町5-106の天沢院である。「政祖」の名がみえるのは『寛政譜』のみ。『寛永系図』の「水野-坤」では「某・山城守法名」-「守次・監物」とするが、忠政との関係は明らかではない。また『士林泝洄』巻36は「大和守・常滑城主」-「大和守」-「守隆・監物」とし「大和守・常滑城主」を忠政の兄弟とする。ただしこれが『寛政譜』にいう監物忠綱」のことなのか明らかではない。 子孫は、河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って大目付、後に大身旗本となった。また戦死した「新七」の後には「信元」の孫八郎衛門(あるいは新七郎)が養子入って水野保雅」を名乗り尾張藩となっている。守信の墓所は父「守隆」と同じ京都天龍寺永明院(同町60)、養子にはいった「保雅」のそれは常滑市社辺64の総心寺である。 「保雅」の実母水野信元の娘で法名栄寿院転誉清心」(あるいは「博誉清心」)、養母同じく信元の娘「向陽院花影総心」であるという(「士林泝洄」巻36)。向陽院監物守隆の妻で、剃髪熱田居住した(『張州雑志復刻1巻650頁)。 「士林泝洄」巻36水野」は、「総心」の養子となった八郎右衛門「某」の母を「信元」の娘とし、同時に中山五郎左衛門」(勝時)の子であるとする(名古屋市蓬左文庫所蔵本「藩士名寄稿本122‐125126項の記述も同様)他方士林泝洄」巻69大崎」によると「信元」の娘を妻とした「大崎七郎右衛門」昌好(元和6年1620年卒)の下に八郎右衛門「保雅」(承応元年1652年卒)をかけている。その姓を「水野」と明記しており、養子となったのはこの「保雅」と考えられる前掲張州雑志』に同趣旨の記述あり)。しかし彼が昌好の実子であるのかどうか記されていない。保雅の娘が「七郎右衛門妻」となっているが、これは七郎右衛門「昌継」(寛永11年1634年卒)の子七郎右衛門「昌次」(延宝3年1675年卒)の妻と考えられる(「士林泝洄」巻69)。

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