市電開通と市街地の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 15:19 UTC 版)
「吉田 (京都市)」の記事における「市電開通と市街地の整備」の解説
明治末期から大正初期にかけて市電がその路線網を拡張すると、まず1913年に熊野神社前までの路線(東山線)が開通し、ついでそれより北の東大路通が整備されて1928年に百万遍まで、1930年には今出川通の延長によって百万遍から河原町今出川までの市電が開通し、京都市中心部との連絡が容易になった。これにより吉田地区では京大および三高の校地の拡充とともに宅地開発が進行した。その一方、当時の京都市三大事業の一環として、鴨川対岸から架橋して東一条通に市電を敷設する計画も持ち上がったが結局実現せず、鴨川東岸から万里小路東一条までの区間が拡幅されるに止まった。以上のような市街地開発に並行して、1918年には町名の改正が行われ、吉田町は吉田牛ノ宮町・泉殿町(以降、冠称の「吉田」を省略)上阿達町・中阿達町・下阿達町・河原町・橘町・本町・近衛町・二本松町・上大路町・中大路町・下大路町・神楽岡町の14町に分割された。
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