市内初の東宝映画の直営館とは? わかりやすく解説

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市内初の東宝映画の直営館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 05:25 UTC 版)

岸和田東宝映画劇場」の記事における「市内初の東宝映画の直営館」の解説

1939年昭和14年2月東宝映画現在の東宝)の直営館として大阪府岸和田市本町219番地1号現在の同府同市本町2番3号)に開館した同地は、当時メインストリートである紀州街道面した繁華街にあり、欄干通りの南のクランク位置した開館当時の同館の支配人は道井九州男観客定員数は322であった。道井九州男は、のちに戦後東宝争議において、伊藤武郎中央委員長とする日映演東宝支部関西分会出身中央役員として争議闘った人物である。同年東宝映画は、2月21日公開の『沼津兵学校』(監督今井正)、5月20日公開『上海陸戦隊』監督熊谷久虎)、9月30日公開の『東京ブルース』(監督斎藤寅次郎)、10月10日公開の『ロッパ歌の都へ行く』(監督小国英雄)、同月21日公開の『花つみ日記』(監督石田民三)、11月30日公開の『白蘭の歌 前篇後篇』(監督渡辺邦男)、12月13日公開の『空想部落』(監督千葉泰樹、製作南旺映画)等を製作・配給している。当時の同市内映画館は、同館のほか、北町第二電気館(のちの岸和田電気館経営泉谷虎吉)や山村劇場(のちの岸和田東映劇場経営山村三郎)、魚屋町朝日座経営・仲為一)、堺町岸和田館経営山口藤次郎および吉田常三郎)、春木町春陽館(経営小南捨三郎)、下野町吉野倶楽部経営・叶善次郎)の合計7館が存在した。同館以外は、いずれも地元興行師経営よるものであった1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない。したがって同館で上映される映画はかならずしも東宝映画の製作物ではなかったが、当時の同館の経営引き続き東宝映画が行っており、支配人は道井九州男観客定員数は322であった

※この「市内初の東宝映画の直営館」の解説は、「岸和田東宝映画劇場」の解説の一部です。
「市内初の東宝映画の直営館」を含む「岸和田東宝映画劇場」の記事については、「岸和田東宝映画劇場」の概要を参照ください。

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