市内中心部の衝突とその後の事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:15 UTC 版)
「2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「市内中心部の衝突とその後の事件」の解説
詳細は「:en:2 May 2014 Odessa clashes」を参照 5月2日、約1,500人の親政府デモ隊による集会が、警棒とヘルメットをつけた親露派武装勢力の少数集団によって攻撃された。双方がオデッサ中心部の通りで衝突し、互いにバリケードを築いたり火炎瓶を投げたり自動火器を発射した。 アンチマイダンの抗議者は後にウクライナ統一国家の遥かに大規模な抗議者集団に圧倒され、労働組合庁舎への退却を余儀なくされた。その後、互いが火炎瓶を投げあって建物は炎上、この衝突で合計43人が死亡した(うち労働組合での犠牲者31人)。警察は少なくとも3人が射殺されたと語った。 この衝突の余波で5月4日、オデッサの主要なウクライナ内務省事務所が親露派抗議者による襲撃を受けた。彼らは衝突に参加した「同志」の釈放を要求し、 警察がこれに応じて逮捕された67人を解放する結果となった。5月5日までにオデッサの状況は落ち着いたが、雰囲気は極めて緊張したままだった。 5月2日の火災を追悼して、7月13日に平和的なデモが複数回(約60人と120人)行われた。彼らは進行中のドンバス戦争を引き合いに出して「ドンバス、我々はあなた方と共にある」を唱和した。オデッサ市長は7月23日、OSCE監視団に5月2日の衝突の「根底にある緊張」が市内にくすぶっており、市の安全を脅かしていると語った。 2014年12月にオデッサは6回の爆発に見舞われ、うち1回で1人が死亡した。内務省の顧問官は12月25日に、オデッサとハルキウがウクライナで「緊張を高めるために利用されている都市」になったと語った。 ウクライナ保安庁は、2015年4月にいわゆる「ベッサラビア人民共和国」の宣言を妨げたと主張している。保安庁によると、その背後にいる分離主義ネットワークは他にも「オデッサ人民共和国」「ポルト・フランコ」などの離脱自治国を設立しようと画策していたという。
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