岩手山近世の縁起とは? わかりやすく解説

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岩手山近世の縁起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:42 UTC 版)

大武丸」の記事における「岩手山近世の縁起」の解説

慶長4年1599年)、南部信直・利直親子は三戸から不来方本拠移して地名盛岡改め盛岡城居城として利直が初代藩主に就くと盛岡藩経営乗り出した。このとき三戸から長谷寺永福寺など多く寺社移転している。南部氏十和田湖水の神青龍権現)として尊崇していたため「十和田本地」も作成された。しかし盛岡へと移転したため十和田湖との距離が遠くなり、新たな問題として盛岡城下から仰ぎ見える岩手山早池峰山姫神山祭礼管理する必要が生じ岩手山を「領内総鎮守」として山頂奥宮を、柳沢口・平笠口・雫石口と城下それぞれ新山堂を建てた平笠口には修験大蔵院雫石口には修験円蔵院、正参道柳沢口には盛岡藩惣録・自光坊、大勝寺、篠木別当齋藤淡路守などを祭礼にあたらせた。 近世岩手山信仰工藤斎藤家語り加えて盛岡居城構えた南部氏の下で台頭した自光坊、大勝寺、大蔵院円蔵院など修験関与する岩手山縁起へと変化している。 『田村三代記』や『三代田村』と異な物語で「平城天皇時代坂の上刈田丸が勅命奥州山嶽大道連勝高を討伐に向かうが敗れて岩手郡池田庄田生玉姫と契る苅田丸は観音の力により大道連勝高を退治する生玉田村丸生む田村丸鳥海山三郎坊から剣術習い長じて田村将利光となり、弟の千歳と共に奥州谷嶽の悪郎高光兄弟退治した」と語られる

※この「岩手山近世の縁起」の解説は、「大武丸」の解説の一部です。
「岩手山近世の縁起」を含む「大武丸」の記事については、「大武丸」の概要を参照ください。

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