岩手山近世の縁起
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慶長4年(1599年)、南部信直・利直親子は三戸から不来方に本拠を移して地名を盛岡と改め、盛岡城を居城として利直が初代藩主に就くと盛岡藩の経営に乗り出した。このとき三戸から長谷寺、永福寺など多くの寺社も移転している。南部氏は十和田湖を水の神(青龍権現)として尊崇していたため「十和田の本地」も作成された。しかし盛岡へと移転したため十和田湖との距離が遠くなり、新たな問題として盛岡城下から仰ぎ見える岩手山や早池峰山、姫神山の祭礼を管理する必要が生じ、岩手山を「領内総鎮守」として山頂に奥宮を、柳沢口・平笠口・雫石口と城下にそれぞれ新山堂を建てた。平笠口には修験・大蔵院、雫石口には修験・円蔵院、正参道の柳沢口には盛岡藩惣録・自光坊、大勝寺、篠木別当・齋藤淡路守などを祭礼にあたらせた。 近世の岩手山信仰は工藤・斎藤家の語りに加えて盛岡へ居城を構えた南部氏の下で台頭した自光坊、大勝寺、大蔵院、円蔵院など修験が関与する岩手山の縁起へと変化している。 『田村三代記』や『三代田村』と異なる物語で「平城天皇の時代、坂の上刈田丸が勅命で奥州霧山嶽へ大道連勝高を討伐に向かうが敗れて、岩手郡池田の庄田村で生玉姫と契る。苅田丸は観音の力により大道連勝高を退治する。生玉は田村丸を生む。田村丸は鳥海山の三郎坊から剣術を習い、長じて田村将軍利光となり、弟の千歳と共に奥州谷嶽の悪郎高光の兄弟を退治した」と語られる。
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