岩手山中世の縁起
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中世の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏の流れを汲む栗谷川氏(厨川氏)が大司祭となって祭礼が行われていた。『岩手山記』に掲載された「陸奥州岩手郡岩鷲山縁起」には、田村丸の鬼人退治と源家の安倍征討が語られる。この縁起は出所不明だが、南部氏に関する事績が見えないため、内容は古態を残していると推測される。往古から代々祭事を司っていた工藤・斎藤家の手による岩手山の縁起で、栗谷川如行の名前が見えることから慶長以降の江戸時代初期に古記録から如行が転写したものとみられる。 「陸奥州岩手郡岩鷲山縁起」は建久元年(1190年)5月28日に、この地を領した工藤小次郎行光が大宮司として配下を引き連れて岩鷲山に登山したと、祭礼の始まりを記したもので、要約すると「桓武天皇の時代に坂上田村麿が奥州霧山嶽の高丸・大嶽丸・吹落征伐の時に行基作の阿弥陀・薬師・観音を祀って三神を勧進し、国土の守護神とした」「安倍氏が崇敬していた岩鷲山阿弥陀三尊を、源頼義・義家親子が盗み、源平の戦い(前九年の役)に勝って高家になった」「工藤行光は源頼朝より阿弥陀・薬師・観音三像を賜って大宮司に任じられた」とある。このように中世の岩手山信仰は「本尊阿弥陀・薬師・観音」を祭ることから宗教的には平安時代後期から中世にわたって興隆した熊野信仰を基調に、歴史的には田村麻呂の蝦夷征討や源頼義・義家の安倍征伐伝承を基調に、工藤家・斉藤家の「家の語り」を加えた岩手山の縁起が創出・継承されていた。
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