山麓への遷座とは? わかりやすく解説

山麓への遷座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:33 UTC 版)

伏見稲荷大社」の記事における「山麓への遷座」の解説

この頃地方領主軍事貴族からの荘園寄進倣い起こり、有力となった寺社が独自の僧兵神人を持つようなると武家同士寺社同士争い巻き込まれるうになる社家一族のうち、羽倉氏はこの頃南北朝混乱時に荷田氏を仮冒して社家継いだことが疑われているが、江戸期国学大家である荷田春満はこの氏族から出ている。 永享10年1438年)、後花園天皇勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓移した、とする伝承藤森神社伝わっている。これによると、現在社となっている稲荷山麓の当地天平宝字3年759年)から藤尾社という舎親王、その父の天武天皇祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内東殿遷座した、現在の藤森にあった真幡寸神社藤森から西に移した現在の城南宮)、という。つまりそれまで稲荷社稲荷山山中現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。このことは、現在でも稲荷大社藤森神社氏子圏のほぼ中央位置し、かつ自身氏子圏ははるか西方東寺近辺限られることからも首肯される。また清少納言が「枕草子」に記すところでは、稲荷参拝に際してあえぎあえぎ登山している様子伺えこのころやはり稲荷社山上の社であった考えられる。現在、山中四つ辻から北に下る道を「御幸道」と呼び、さらにその下方に「車坂」の地名が残るのも、かつての参宮路の名残だと考えられる。なお、藤森神社には永享10年将軍足利義教から寄進され重要文化財の「八幡宮」「大将軍社」二棟が建つが、これも義教による稲荷遷座に伴うものと推測される応仁の乱が始まると、東軍細川勝元側の足軽大将骨皮道賢稲荷社に陣を置き、後方から西軍山名宗全側を撹乱攻撃するゲリラ戦展開していたが、翌応仁2年1468年3月西軍攻撃受けて道賢は討死し、稲荷社山上建物含めてすべて焼きつくされた。

※この「山麓への遷座」の解説は、「伏見稲荷大社」の解説の一部です。
「山麓への遷座」を含む「伏見稲荷大社」の記事については、「伏見稲荷大社」の概要を参照ください。

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