山内豊煕とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 山内豊煕の意味・解説 

山内豊熈

(山内豊煕 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 01:18 UTC 版)

 
山内豊熈
時代 江戸時代後期
生誕 文化12年2月29日1815年4月8日
死没 嘉永元年7月10日1848年8月8日
改名 政太郎、晟太郎(幼名)→豊熈
別名 直寿
諡号 君戴、三鏡、鏡斎、芳洲
戒名 養徳院後鏡視倹
墓所 土佐藩主山内家墓所(高知県高知市筆山町)[1]
官位 従四位下対馬守土佐守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶
土佐藩
氏族 山内氏
父母 山内豊資、美芳院
兄弟 豊熈豊惇、豊矩、豊範、貞、悦、嘉年ら11男7女
候姫、平岡民
円林院、麟姫、鍈姫(酒井忠恕室)、鏸姫(山内容堂養女、稲葉観通室)、弥太郎、綱姫(浅野長勲室)、篤弥太
養子:豊惇
テンプレートを表示

山内 豊熈(やまうち とよてる)は、江戸時代後期の大名土佐藩13代藩主。

生涯

文化12年(1815年)2月29日、第12代藩主・山内豊資の長男として生まれる。天保14年(1843年)3月7日、父の隠居により跡を継ぐ。幼時より聡明で知られ、佐藤一斎に師事した。

藩政改革を自ら行ない、西洋砲術を導入し、文武を奨励し、倹約令による藩財政再建、さらに馬淵嘉平など身分にとらわれない有能な人材の登用などを行なっている。

馬渕嘉平は豊熈からの信任が厚く、藩財政の収支の見直し、専売制の強化、問屋制からの脱却による寄生的な藩財政体質の改善など、旧体制からの脱却と新体制の確立を目指した。このため、馬渕らは「おこぜ組」と呼ばれて保守派から異端視されたが、豊熈は嘉平を支持した。ところが、馬渕が当時異学視されていた心学を学んでいたことを保守派から糾弾されたため、豊熈はやむなく馬渕を処罰せざるを得なくなった。また、豊熈も嘉永元年(1848年)の参勤交代江戸に出た直後の7月10日に34歳で死去したため、藩政改革は結果的に失敗に終わった。

墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所[2]高知県高知市筆山町)[1]

跡を弟で養嗣子の豊惇が継いだ。

系譜

  • 父:山内豊資(1794年 - 1872年)
  • 母:美芳院 - 大賀宗文の娘
  • 正室:候姫(1815年 - 1880年) - 祝姫、智鏡院、島津斉興の次女
    • 男子:円林院 (1835年)- 夭折
    • 女子:麟姫 (1840年)- 夭折
  • 側室:平岡権助の娘、民(1824年 - 1873年)
    • 女子:鍈姫(1841年 - 1924年)酒井忠恕(酒井忠発嫡男)室
    • 女子:鏸姫(1842年 - 1864年) - 山内容堂養女、稲葉観通
    • 男子:政太郎(1843年 - 1844年)
    • 女子:綱姫(1845年 - 1919年) - 浅野長勲正室
    • 男子:篤弥太(1847年 - 1848年)
  • 養子

脚注

  1. ^ a b 国史跡土佐藩主山内家墓所整備事業概要(令和2・3年度)”. 公益財団法人土佐山内記念財団. 2025年2月6日閲覧。
  2. ^ 山内家墓所”. 高知県立高知城歴史博物館. 2025年2月6日閲覧。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山内豊煕」の関連用語

1
30% |||||

2
12% |||||

3
12% |||||

4
12% |||||

山内豊煕のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山内豊煕のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山内豊熈 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS