小説家・ジャーナリストとして
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「矢野龍渓」の記事における「小説家・ジャーナリストとして」の解説
1882年(明治15年)に、所属していた東洋議政会を率いて立憲改進党に参加。 党の運営などの多忙さによる過労で、一時病床についたが、その閑暇を利用して国民を鼓舞し憲政を立てさせるのに役立つような政治小説を作ろうと画策。古代ギリシアのテーベの興亡を題材として成立した『経国美談』の前篇が1883年(明治16年)に発表されると、大評判となり版を重ね、特に前篇・第11回の『春の花』は自由民権運動家の壮士に愛唱され、また松林伯圓や川上音二郎が講談として演じたと伝えられている。自由民権運動が高潮しつつあった1884年(明治17年)2月に後篇が出版される。資金を元手に、翌年から新聞事業視察のためにヨーロッパに外遊し、香港を経由してフランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどを1886年(明治19年)にかけて歴訪、クレマンソー、レセップスなどとも会見している。この中で政治、文化から、科学技術、商業にいたる様々な分野に関心を示し、『周遊雑記』などに発表した。 帰国後は『郵便報知新聞』の改革を計り、購読料の引き下げ、記事の充実、文体の平易化、配達の敏速化を進め、弟の小栗貞雄や三木善八を起用。矢野は推されて栗本の次席格としておさまり、社長格には栗本鋤雲がいた。編集長には慶應義塾出身の藤田茂吉が居た。
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