寿春平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)
朝廷は敗戦の責任を問わず、侍中羅含を派遣して牛酒を持たせ、山陽で桓温をねぎらった。11月、会稽王司馬昱は詔を携えて涂中において桓温と会合し、桓温の世子桓熙を仮節・征虜将軍・豫州刺史に任じた。妻の南康公主が死去すると、布千匹・銭百万を与える詔が下されたが、桓温は固辞した。また、桓熙については3年間の服喪が必要であり、また年少であることからも辺境の任務には尚早であると陳弁したが、認められなかった。 12月、桓温は徐州の人民を徴発して広陵城を築かせると、鎮所を移した。この時期、行役が度重なっていた上に、疾病が蔓延したため、死者は10人のうち4・5人に上り、百姓は嗟怨の声を挙げた。秘書監孫盛は『晋春秋』を著し、この事実をありのままに記したので、桓温の怒りを買ったという。 太和5年(370年)2月、袁真が病死すると、配下の朱輔は子の袁瑾を豫州刺史として後を継がせた。前燕・前秦はいずれも袁瑾に援軍を派遣した。桓温は督護竺瑶・喬陽之に水軍を与えて迎撃を命じた。前燕軍が到来すると、竺瑶は武丘でこれを破った。 8月、桓温は兵二万を率いて広陵から軍を発した。袁瑾が籠城して守りを固めると、桓温は城を包囲した。 太和6年(371年)、前秦の将軍王鑒・張蚝らが2万を率いて到来すると、軍を洛澗に留めて精騎兵五千を肥水の北へ進ませた。桓温は桓伊と弟の子である桓石虔に迎え撃たせ、石橋において王鑒を大破した。また、桓温は諸将に命じて両陣営に夜襲を掛けさせ、張蚝らを慎城に撤退させた。勢いのままに寿春に進軍し、袁瑾軍を潰滅させた。袁瑾を生け捕りにすると、宗族の数十人や朱輔と共に建康へと送った。袁瑾の妻女は褒賞として将士に与えられ、彼が養っていた数百人の乞活は全て生き埋めにされた。これにより、豫州は尽く桓温の勢力下となった。桓温は功績によって班剣10人を与えられた。帰還の途中では労いの酒宴を受け、文武官には格差をつけて論功行賞が行われた。 3月、前秦の後将軍倶難は桃山に進んで東晋の蘭陵郡太守張閔子を攻めたが、桓温は兵を派遣してこれを返り討ちにした。
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