寿春陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
太元8年(383年)8月、前秦君主苻堅は東晋征伐を決行すると、陽平公苻融に諸軍を統率させて総勢25万を与え、長安より出撃させた。また、ほかにも涼州・益州・梁州・幽州・冀州を始め、全国各地より軍を出撃させた。さらに苻堅自らもまた総勢87万を超える大軍を率い、苻融に後続した。 9月、苻堅の本隊は項城へ到達し、苻融率いる前鋒軍は潁口へ到達した。詔により、謝玄は都督徐兗青三州揚州之晋陵幽州之燕国諸軍事・前鋒都督に任じられ、征討大都督謝石・輔国将軍謝琰・西中郎将桓伊・龍驤将軍檀玄・建威将軍戴熙・揚武将軍陶隠らと共に兵8万を率いてこれを迎え撃った。 10月、苻融らは寿春を陥落させて平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を捕らえた。また、別働隊を率いる冠軍将軍慕容垂は鄖城を攻略し、将軍王太丘の首級を挙げた。苻堅は大軍を項城に留め、騎兵八千のみを率いて寿春へ向かった。
※この「寿春陥落」の解説は、「謝玄」の解説の一部です。
「寿春陥落」を含む「謝玄」の記事については、「謝玄」の概要を参照ください。
- 寿春陥落のページへのリンク