富山赤尾氏とは? わかりやすく解説

富山赤尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 07:12 UTC 版)

赤尾氏」の記事における「富山赤尾氏」の解説

清綱の孫にあたり出雲京極家仕え赤尾清正の娘・勝野才女誉れ高く[要出典]、徳川秀忠次女である珠姫天徳院)が3歳加賀藩主前田利常輿入れした際に召し出され仕えた秀忠正室の江(崇源院)は浅井長政の娘であり、赤尾氏とのつながり強さ物語っていると考えられる[要出典]。やがて前田利次(利常の次男)が生まれると傅役任され寛永16年1639年)、利次に富山藩10万石が分藩されると富山城移り富山藩の奥を創設し、御広式を整備して奥女中束ねた30人扶持と金50両が給された。 勝野の父・三右衛門清正寛永17年1640年)に前田利次仕え500俵・銀100枚)、長兄の弥三左衛門(後に三右衛門清治500石)は寺社奉行町奉行次兄の覚太夫清長200石、後に50加増)も寛永16年に利次の御馬廻として仕え、後に呉服土蔵奉行などを務めた清長の子太夫清貞は前田正甫小姓である。 勝野延宝8年1680年)に兄清治の孫の甚左衛門清房を養子迎える(5人扶持・金10両)。清房は御手廻組・御広聞番勤め貞享2年1685年)に勝野の跡を継いだ。清房の妹は前田正甫側室となり、天和2年1682年8月1日富山姫を産むが翌年7月2日夭折、清房の妹は城を出て奥村左衛門具頼(400石、寺社奉行宗門奉行歴任)に嫁した勝野貞享2年没したが、赤尾三家はそれからも富山藩主の側近くに仕え廃藩置県迎える。

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