宮部氏、京極氏家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 07:12 UTC 版)
清綱の長男は通称新兵衛尉、後に清冬。浅井氏滅亡後宮部継潤に仕え、因州諸磯の城代となる。その後、継潤の子宮部長房に仕えるも、関ヶ原の戦いで長房が西軍に組したために長房は所領鳥取5万石を没収される。清冬の子の三右衛門清正は初め宮部継潤に仕え、関ヶ原の戦いの後、元の主家である京極高次に1000石(京極高次分限帳)で仕える。寛永11年(1634年)に高次の子京極忠高が出雲松江藩へ転封されると、忠高につき従い小浜より出雲へ移った。富山赤尾氏の祖となる赤尾勝野は清正の次女である。 清綱の次男は初め加兵衛尉と称し、のち四郎兵衛と改める。浅井氏滅亡後、関ヶ原の戦いで福原右馬介に属し戦死する。 清綱の三男は初め新介と称し、後に赤尾伊豆守と称する。浅井家滅亡後京極高次に仕官する。1600年、大津城の留守を黒田伊予守とともに預かる。高次の帰還(西軍として出陣し東軍となり帰還する)の後の大津城の戦いで山田大炊良利らと共に奮戦し、活躍はめざましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。そのため西軍は大津城をなかなか落とせず、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を大津に釘付けにした。関ヶ原の戦いののち、高次の新しい封地の小浜城の築城に際して、縄張りをして石垣の基礎を基づいた。伊豆守の子、通称 主殿助は初め京極高次に3500石(京極高次分限帳)で仕え、後加賀藩第3代藩主前田利常に1000石(加賀藩寛文侍帳)で召抱えられる。 清綱の四男は孫介と称し、小谷落城後羽柴秀吉に仕え、尾州長峰で討ち死にする。小谷落城の時織田信長の預かりとなる。15歳であった。
※この「宮部氏、京極氏家臣時代」の解説は、「赤尾氏」の解説の一部です。
「宮部氏、京極氏家臣時代」を含む「赤尾氏」の記事については、「赤尾氏」の概要を参照ください。
- 宮部氏、京極氏家臣時代のページへのリンク