宿屋仇
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『宿屋仇』(やどやがたき)は上方落語の演目。別題として『日本橋宿屋敵』(にっぽんばしやどやがたき)[1][2]。江戸落語では『宿屋の仇討』(やどやのあだうち)との演目名で演じられる[1][2][3]。江戸での別題として『甲子待(きのえねまち)』『庚申待(こうしんまち)』『万事世話九郎(ばんじせわくろう)』がある[3][4]。江戸落語へは3代目柳家小さんが上方から移植したとされる[1]。
武藤禎夫は原話として、文化ごろの『無塩諸美味(ぶえんのもろあじ)』収録「百物語」を挙げ、喜久亭寿暁の演題集『滑稽集』の「甲子茶ばん」が「肉付けして高座にかけたもの」ではないかと推測している[4]。天保ごろの漢文体笑話本『如是我聞』第1巻掲載「庚申社会」が「甲子茶ばん」に近いのではないかとする[4]。
あらすじ
大坂の日本橋の宿屋に一人の旅侍がやってくる。前夜に泊まった岸和田の宿では大部屋の雑魚寝で騒がしかったので、狭くてもよいので静かな部屋で休みたいと手代に告げて泊るが、その後に現れた伊勢参り帰りの喜六・清八・源兵衛の三人連れがどうした手違いか隣の部屋に案内され、芸者を呼んで大騒ぎを始める。
侍が手代を呼んで苦情を告げたものの、団体客が泊まっていたため代わりの部屋を用意できない。手代が侍からの苦情を三人組に伝えると、三人は不承不承寝床に入るがなかなか寝られない。旅の思い出を語り合ううちに相撲の話になり、思わず部屋で取り組みを始めて、また侍から苦情が来る。静かな話がよろしいというので、源兵衛が、三年前に武士の妻とねんごろになった挙句に、その現場を目撃した夫の弟を斬り殺し、妻の方も始末してしまったという自身の体験を語り出す。喜六は思わず「源やんは色事師!」とはやし立てる。
すると隣の侍がまた手代を呼び、「拙者、三年前妻と弟を殺められ、仇を討たんものと旅しておったが、今こそ分かった。隣の源兵衛と申す男こそ我が求める仇である。連れの者と一緒に今すぐ討ち取る!」と告げ、宿の者らに命じて三人を柱に縛り付ける。源兵衛は「あれは三十石船の中で聞いた話だ」と弁解するが侍は耳を貸さない。
侍はゆうゆうと眠りにつくと、翌朝、昨夜のことはすべて嘘だったと手代に告げる。なぜそんな嘘をついたのかと聞かれた侍は「ああ言わねば身共を夜通し寝かしよらぬ」。
題材について
江戸落語での別題の『庚申待』『甲子待』は60日に一度めぐってくる庚申(または甲子)の宵に夜明かしをする中国の道教信仰を源流とした風習(庚申待)が背景にある。「庚申待」で旅籠が店を休んで店員がいろいろ語らっているところに、急用の上得意客が来て泊めざるを得なくなるという前段が付く形である[3]。前田勇は『庚申待(ち)』を「サゲも同じなれど別話」としている[1]。
噺の中で出てくる不倫殺人事件は、近松門左衛門の『堀川波の鼓』からとったものである[要出典]。
バリエーション
敵と勘違いされた源兵衛の弁解「他から聞いた話や」は、演者によっては「芝居(あるいは講談)の筋」とされることもある。また「明朝に日本橋で出会い敵」にするということで、三人連れを部屋に軟禁させるという形をとる場合がある[要出典]。3代目桂三木助は上方版に準拠した筋立てだったが、設定は侍の前泊地が小田原、泊まり合わせるのが江戸の魚河岸の若い衆(宿泊地は明言せず)と、江戸に近いものに変更している[3]。
江戸での別題『万事世話九郎』は、上方で侍を当初この名前にしていたことに由来する[3]。
参考文献
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- 前田勇『上方落語の歴史 改訂増補版』杉本書店、1966年。NDLJP:2516101。
- 興津要 編『古典落語(続々)』講談社〈講談社文庫〉、1973年
- 東大落語会 編『落語事典 増補』青蛙房、1973年。NDLJP:12431115。
- 宇井無愁『落語の根多 笑辞典』角川書店〈角川文庫〉、1976年。NDLJP:12467101。
- 武藤禎夫『定本 落語三百題』岩波書店、2007年6月28日。ISBN 978-4-00-002423-5。
外部リンク
- 上方落語メモ第1集 - 宿屋仇 - ウェイバックマシン(2004年9月29日アーカイブ分)
固有名詞の分類
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