定勝系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:59 UTC 版)
俊勝の三男・定勝の家系は、久松松平家3系の中では最も隆盛した。定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3,000石を振り出しに遠江掛川藩3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名藩11万7,000石と栄進している。 定勝には6人の男子がいた。長男・定吉は早世、次男・定行は定勝のあとを継承して伊予松山藩15万石の祖となった。この家系から1,000石の旗本1家が分家として出た。 三男・定綱は、美濃大垣藩6万石から伊勢桑名藩11万石の祖。子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に移されたこともあるが、幕末には桑名藩主であった。なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入った。桑名藩主家は明治維新後も松平氏を称し続けた。 四男・定実の家系は旗本2,000石で、またこの家系からは、定実の三男定寛を祖とする松平源太夫家(下野国安蘇郡内1,000石)が分家として出た。 五男・定房は長島城主7,000石から伊予今治藩3万石の祖。 六男・定政は三河刈谷藩2万石を与えられたが、のち出家して幕政批判をしたために廃絶、子孫は旗本として家名再興を許された(知行500石・俸禄1,500俵)。 この他、『南紀徳川史・第4冊』によると桜井松平家の松平忠頼の三男・忠勝が定勝の養子となった久松松平家が紀州藩高家になっており、この家より徳川家茂の生母である実成院が出ている。
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