子:松千代(松寿)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:52 UTC 版)
直末の遺児である松千代は、黒田家に引き取られて孝高(如水)に養われた。黒田家側の史料では「松寿」と呼ばれている(なお、黒田長政の幼名も「松寿」である)。小野藩一柳家文書の『丙午録』によれば、家督相続をめぐって一柳家中に争いが生じたことが背景にあるという。慶長8年(1603年)3月1日に14歳で夭折(父が戦死した天正18年(1590年)の生まれとなる)。法名を「大通院殿雲沢宗龍大禅定門」といい、博多の聖福寺に墓が現存している。 『黒田家譜』によれば、如水は松寿をかわいがり、隠居後には遺品を松寿に譲るべく、諸道具に松寿の名を入れさせたという。文禄2年(1593年)8月9日、秀吉の勘気を被った黒田家隠居の如水は、当主長政に宛てて万一の場合の遺言状をしたためているが、長政に実子ができなかった場合、松寿が黒田家を継ぐよう指名されている。長政は、妙心寺の九皐宗疇(南化玄興の弟子である)に帰依しており、聖福寺の塔頭順心庵に入れて松寿の文学の師とした(当時の聖福寺は建仁寺派の寺であった)。 『黒田家譜』は松寿の死について以下の事情を伝える。松寿は剣術を好み、木刀で戯れに人に打ちかかっては、相手が扇や脇差などありあわせのもので受け外すと褒めていた。如水の小姓である小林市蔵という者は、そばにあった刀で受け止めようとしたが、刀身が剥き出しになってしまい、打ちかかって傷を負った松寿は、そのまま出血が止まらず死亡した。市蔵は切腹した。 松寿の葬儀は九皐宗疇を導師として行わせたが、建仁寺から派遣されて来た監寺2名(中興の祖とされた耳峰玄熊の死後、住持は空席であった)がこれに不満をもって参列しなかったために、長政は激怒し、彼らを放逐して九皐を住持とした。このため聖福寺は妙心寺派に転派することになったという。
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