山中城攻めでの戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:52 UTC 版)
天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めでは中村一氏とともに先鋒を務めたが、間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した。『寛永譜』『寛政譜』では享年45であるが、『一柳家史紀要』では38歳とある。動揺した一柳勢は一柳直盛がとりまとめて奮戦しており、その日のうちに山中城を陥とすことに貢献した。 直末の首は、敵の手に落ちないよう従僕が持ち去り、山中城攻めの拠点であった長久保城にほど近い下長久保村(現在の静岡県駿東郡長泉町下長窪)に埋めたと言い、現在も同地に「首塚」がある(#関連史跡参照)。 陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。『一柳家記』によれば、朝食中の秀吉に小寺官兵衛(黒田孝高)が「伊豆守(直末)手負候」と報告すると、秀吉は食事を吐き出して手負とは討死かと聞き返し、官兵衛がその通りと答えると、「城を攻め破っても無益である、関東にも代えがたいのが伊豆守であった」と語って膳の上に落涙したという。これは秀吉の小姓で朝食を配膳していた蒔田広定(権之助)が直盛に語ったこととされている。 直末には子の松千代がいたため、秀吉の命で直盛は遺領から3万石を与えられた、あるいは直盛が所領を預かったともいう。のちに松千代は黒田家に引き取られるものの、慶長8年(1603年)に早世した。直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築くことになる。
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