妙覚寺 (稲城市)
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妙覚寺 | |
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所在地 | 東京都稲城市矢野口2454 |
位置 | 北緯35度37分56.78秒 東経139度30分50.66秒 / 北緯35.6324389度 東経139.5140722度座標: 北緯35度37分56.78秒 東経139度30分50.66秒 / 北緯35.6324389度 東経139.5140722度 |
山号 | 雲騰山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
本尊 | 十一面観音 |
創建年 | 天文19年(1550年) |
開山 | 陽雲 |
開基 | 万松院(足利義晴) |
正式名 | 雲騰山妙覚寺 |
札所等 | 多摩川三十四ケ所観音霊場22番、準西国稲毛三十三所観音霊場5番 |
文化財 | 妙覚寺の筆塚[1]、妙覚寺の板碑[2] |
法人番号 | 7013405000284 |
妙覚寺(みょうかくじ)は、東京都稲城市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は雲騰山。本尊は十一面観音。
歴史
『稲城町誌』によると、当寺所蔵の過去帳に「当山開基万松院 天文十九庚戌五月四日[注釈 1]」「開山陽雲讃和尚 永禄四辛酉四月廿三日[注釈 2]」とあり、「開基万松院」は室町幕府第12代征夷大将軍・足利義晴の法号「万松院曄山道照」を指す。「開山陽雲」は当寺の南東約1km、川崎市多摩区菅仙谷にある寿福寺の住持であり、寿福寺の住持陽雲が退隠所(隠居寺)として建てたもので、寿福寺が関東公方足利氏満の外護で再興したため、足利義晴を開基としたとする[3]。また『多摩の歴史 5』も『稲城町誌』を参考資料として同様に記している[4]。
なお『新編武蔵風土記稿』巻之九十五「多磨郡之七 府中領」では寺号を「明覺寺(明覚寺)」、除地七畝八歩(約720.66m2)、山号を「雲登山」、橘樹郡菅村壽福寺(寿福寺)末と記し[5]、『江戸名所図会』天璣之部では「
文化財
- 筆塚(昭和60年1月23日指定[7]) - 境内にある筆塚は、指導者の永年にわたる学業指導の功績と徳を称えて嘉永7年(1854年)閏七月に建立されたもので、石碑の表面には指導者だった角田すず女の辞世の歌「紫の雲の迎を待つばかり、うき世の事はとにも角にも」が刻まれている。また、台石の表及び左右側面に矢野口村・長沼村・押立村・菅村の49名の筆子代表者の名前が刻まれている[1]。
- 板碑(昭和52年2月28日指定[7]) - 鐘楼の横に、稲城市内最大(地上高112cm)の板碑がある。この板碑は阿弥陀三尊の種子、「逆修道秀禅門」と刻まれた供養者名、「享徳三年甲戌八月時正日[注釈 3]」(1454年8月)の紀年銘、光明真言の梵字(悉曇文字)が左右2行に記されるなど、保存状態の良好な板碑である[2][9]。
交通アクセス
- 京王電鉄相模原線京王よみうりランド駅より徒歩4分。
脚注
注釈
出典
- ^ a b “筆塚(ふでづか)”. 稲城市役所 (2017年6月27日). 2024年1月24日閲覧。
- ^ a b “板碑(いたび)”. 稲城市役所 (2017年6月27日). 2024年1月24日閲覧。
- ^ 稲城町誌 1967, p. 33.
- ^ 松岡六郎、吉田格 編『多摩の歴史 5』武蔵野郷土史刊行会・有峰書店、1975年10月20日、275頁。doi:10.11501/9641047 。
- ^ 蘆田伊人 編『大日本地誌大系』 第9巻 新編武蔵國風土記稿五、雄山閣、1931年10月20日、39頁。doi:10.11501/1214850 。
- ^ a b 斎藤月岑 著、塚本哲三 編『江戸名所圖會 二』有朋堂書店、1927年6月13日、429-432頁。doi:10.11501/1174144 。
- ^ a b “指定文化財一覧表”. 稲城市役所 (2022年3月4日). 2024年1月24日閲覧。
- ^ 稲城町誌 1967, p. 39.
- ^ 稲城町誌 1967, p. 35-39.
参考文献
- 稲城町誌編纂委員会 編『稲城町誌』稲城町役場、1967年11月1日。doi:10.11501/2988628。
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