妙円寺詣りの興り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:10 UTC 版)
自分の菩提寺に妙円寺を指定した武将・島津義弘は、生前に京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示。敵の反対側ではなく敵中突破して撤退したとして知られる「島津の退き口」により、島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して、その前夜にあたる旧暦9月14日、平和な時にも関ヶ原における先人の体験を見習って心身を鍛えようと、福昌寺の墓地にある義弘の墓ではなく、生きている義弘として取り扱われている木像を参拝すべく、甲冑に身を固めた鹿児島城下の武士たちが、鹿児島城下から伊集院郷徳重村の妙円寺までの往復40kmを夜を徹して歩き参拝したことに端を発する。 鹿児島で受け継がれてきた郷中教育には、「山坂の達者は心懸くべきこと」という教えがあり、寺もしくは神社が建設されている地域の郷中にいる二才(にせ)衆と親睦を深めるという背景もあり、かつて薩摩藩ではそれぞれの命日に参る習慣として妙円寺詣りと共に、島津忠良の菩提寺である日新寺の加世田詣りと、島津歳久の菩提寺である心岳寺の心岳寺詣りが、武士層の間で受け継がれてきた。
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