女性の社会運動と廃娼運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
「日本の女性史」の記事における「女性の社会運動と廃娼運動」の解説
資本主義の進展すると都心で貧困問題が発生する。このような下層社会に目を向け貧民子女教育に力を入れたのが野口幽香や森島みねである。野口らは上流婦人や慈善運動家から援助を集めて1900年から二葉幼稚園を運営する。また同じころに社会問題となったのは足尾鉱毒事件である。現地をみた矯風会は、鉱毒地救済婦人会を結成し窮状を訴える演説会を実施。集まった募金で被害地の救援を行った。 1875年にマリア・ルス号事件が起きると、日本政府は外交交渉に配慮して人身売買や年季奉公を制限する芸娼妓解放令を発布する。しかしこれらは売春そのものを禁止するものではなかった。1900年には娼妓と楼主の契約を無効とし、前借金の有無にかかわらず自由廃業できるという判決が下りた。これにより翌年までに12000人余りが廃業したと言われ廃娼運動が一歩進んだ。また婦人救済所をつくり廃業した女性の救済更生活動に尽力したのは山室軍平と妻山室機恵子らである。 1925年に『婦人および児童の売買禁止に関する国際条約』を保留条件付で批准すると国際連盟による状態調査が行われて国は対応を迫られる。1934年に岡田啓介内閣は廃娼の方針を固めるが、1935年には娼妓存続派が『娼妓取締法』(審議未了)を提出してこれに反抗。以降は戦時体制下において娼妓の存在が正当化された。
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