太子没後からの聖人化とは? わかりやすく解説

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太子没後からの聖人化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)

太子信仰」の記事における「太子没後からの聖人化」の解説

太子伝説化早く死後すぐに始まったとされる法隆寺釈迦三尊像銘文によればこの中尊の釈迦像は太子没した翌年(623年)に完成したもので、太子等身作成されたとされており、聖人化の最も早い事例とする説がある。 文献資料確認できる聖人化は、720年完成した書紀』の記述が最も早いとされる。『書紀によれば推古天皇即位すると、太子皇太子摂政付き、「万機委ねられ天皇の事を行ったとされる。しかし、皇太子地位確立されたのは後の持統天皇時代であり、こうした伝説記された事には編纂者何らかの意図があったと考えられている。 田中嗣人は、天武天皇によって法隆寺西伽藍再建された事から太子信仰の源を天武天皇求め、『書紀』の記述もこれを反映したものとしている。大山誠一は、編纂最終段階皇位継承不安定な時期であり、皇太子地位の確立理想的な天皇像を示すために中国聖天子像が組み込まれたもので、藤原不比等長屋王道慈によって創作されたとした。また、吉田は『書紀』の太子伝承四天王寺中心とした記述となっていると指摘し四天王寺関係の深い人物が『書紀』の編纂影響及ぼした推測している。 こうした太子立太子正当性強調するために『書紀』では様々な伝承によって太子聖人として描いた。特に、片岡飢人伝説中国尸解仙伝承取り込んだものと考えられ、「飢人を仙人見抜いた太子もまた「聖人」として相応しい」と結んでいる。また、太子の師であった慧慈は、太子聖人であることを知る人物として描かれている。 なお、『書紀』より古い伝承含まれる史料としては、『法王帝説』があり、このほかにも散逸して一部しか伝わらない奈良時代太子伝として『上宮記』『明一伝』『七代記』が知られている。

※この「太子没後からの聖人化」の解説は、「太子信仰」の解説の一部です。
「太子没後からの聖人化」を含む「太子信仰」の記事については、「太子信仰」の概要を参照ください。

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