太子殺害を教唆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)
299年12月、賈南風は皇太子司馬遹を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とし、300年1月には許昌宮に幽閉した。これに憤った司馬遹の元部下であった右衛督司馬雅・常従督許超は、殿中中郎士猗らと共に賈南風の廃立と皇太子の復位を目論み、この計画に際し強大な兵権を握っていた司馬倫に協力を仰ごうと思い、司馬倫の腹心孫秀へ協力を持ち掛けた。孫秀はこれに同意して司馬倫に伝えると、司馬倫もまた賛同し、通事令史張林と省事張衡らに命じて政変の際には内応するよう準備させた。 しかし孫秀は裏で密かに「太子は聡明で剛猛な人物です。もし東宮に帰還できても、誰かの制御を受けたりはしないでしょう。明公(司馬倫)は元々賈后(賈南風)と結託していたのは誰もが知るところであり、今回太子のために大功を立てたとしても、太子は明公が周囲の圧力によりやむなく協力したぐらいにしか思わず、明公に対する怨みは無くなっても感謝することなどないでしょう。むしろ、今後もし過失があったらそれを口実に誅殺される恐れすらあります。ここはわざと決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つべきです。その後、太子の仇をとるという大義名分で賈后を廃せば、禍を除いた上に更に大きな志を得ることも可能でしょう」と司馬倫に勧めると、司馬倫はこれに従った。
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